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玉響記=たまゆらのき=

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幼い記憶

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明日、8月15日は日本が戦争に負けて70年の日を迎える。
その日の記憶は全くない。
年齢的にはあっても良いのだが 玉音放送があった その時間、私は何をしていたのだろう?
当時、同じ屋根の下で暮らしていた祖父母、両親は もういない。
我が家にはラジオというものもなかったのだろうか?そんな記憶さえない。姉に聞くと「あったよ」という。姉は今でいうダイニング、当時住んでいた家は板の間と言ったと思うが、その隣の部屋で聞いたそうだ。そこに私が居たかは記憶にないそうで 聞き取り難いラジオを聴いたそうだ。その後 母は「しっかり頑張りなさいと言うたはるんや」と言ったそうで その言葉が忘れられん、と言う。
確かに その後、映画やTVなどでも何度も聴くが理解し難い その上、余程感度の悪いラジオだったのだろう。
幼い記憶_d0330311_8234177.jpg
昭和16年12月8日 日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まった。
それから多くの犠牲があって この日を迎えた。

難しい事は判らないが そんな日本に生まれた私は生まれ育った家を焼かれ疎開先だった叔父が戦場へ行った留守宅を借りて住んでいた。
その家族は祖母の家に移り住んでくれた。今、思えば従兄弟たちの犠牲があっての生活だったかもしれない。
勿論、のほほんと暮らしていたわけではなく当時、イジメなどとは感じなかったが疎開っこは それなりの仕打ちに遭っている。
当時、カボチャや芋ばかりだったが餓えに苦しんだわけではない。子供にだけ無理をしてくれていたのかもしれない。姉は今もカボチャが嫌いだと言う。当時のことが蘇るようだ。4才違いで感じ方が違うのかもしれない。幼い記憶_d0330311_8441521.jpg
その後、叔父が戦地から無事帰ってくることになり 私たち一家は大阪へ戻ることになった。が、焼けてしまった家はなく再建するお金も多分なかったのだろう。近大(今ではマグロで有名になったが・・)のすぐ近くに戦争未亡人となった親戚のオバサンの家を借りることになった。
疎開先と違い学校も近く、下校後は近所の子とかくれんぼやドッチボール、缶けり、馬跳びなどに興じた。
当時、流行り出した「東京ブギウギ」「買い物ブギ」「りんごの唄」など近所のお姉ちゃんが教えてくれた。
何一つ不自由なくとは言わないまでも それなりに楽しい日々だったのだろう。

今、新聞やTVで報じられている様々な出来事から思えば 恵まれた生活が出来ていた。親からは何も聞かされていなかったが 子供の為に頑張ってくれたのだろう。
私には語り継ぐほどのことは何もないが 親の庇護の元にあったこと、改めて感謝しなければならない。
by souu-3 | 2015-08-14 09:17 | 雑記
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一瞬のきらめきを求めて


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