元興寺文化講座
元興寺文化財研究所所長・水野正好先生による文化講座も 何度目になるだろうか。
受講者も増え満員である。
研究所の窓から 興福寺の五重塔が見える。
毎回、ここに載せるには私の知識が不足している。
前回の「女性と陵墓とハニワの里」は上手く纏められなかった。
今回は「春日三笠山ー東大寺造営と四至図」
元興寺、東大寺、興福寺など 何もなかった時代の話である。
水野先生の話は その当時、そこに居た人が話されているように聞こえる。
発掘により知ることが出来ることは多いようだ。
文字の世界も 当時、それに係わった人が生きている筈がない時代に遡って考え出された説ではあるが こちらも色んな物をつなぎ合わせ 考え、考察する。
「そんな事 有り得ない」と言ってしまうと それまでだが想像を膨らませると夢が広がる。
話の内容は ここで詳しく書く能力に欠けているので省略させていただく。
上の図は 平城京の条坊であるが 細かく作成されている。
この右端に東大寺がある。ここは左京の傾斜地に設けられた外京(げきょう)と呼ばれる位置にある。
右の図が「四至図」であるが 原本は縦229㎝、横223㎝の麻布で素人の私には見難いが それを少しは判り易く模写されたもののようだ。香山堂は現在の新薬師寺のことで、興福寺は山階寺(やましなでら)といった。
松林も描かれているが今も奈良時代のまま残されている。
先生の話によれば これらの地図を片手に歩いてみると良いと。
新しい発見もあるかと思われる。
先生は奥様と歩かれた山では ヒルに悩まされたということだったが 季節も考えて歩かねばなるまい。
元興寺は6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身で、和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。
興福寺は藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として 山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源で、平城遷都に際し、現在地に移転し「興福寺」と名付けた。平城遷都後まもなく開始されたと思われる中金堂は戦災や火災で7回焼失しているが 2018年の落慶を目指して再建中である。
元興寺、興福寺、東大寺の順に建設された。
浮図田(ふとでん)に咲く花は、今の時期 桔梗であるが 数日前に撮影されたブロ友さんの写真を見ると盛りは過ぎた感はある。
一緒に受講したカメラ屋の店主が「多ければ良いという訳ではない」と言われたが やっぱり寂しい。
*浮図田とは、仏陀、仏塔の意味で、奈良町の道や川、個人の家の敷地から出てきた石仏たちを元興寺に寄せられたようだ。昭和63年修景整備で2500余基の石塔、石仏類が集まったそうで この周辺に咲く花は1ヶ月前に訪れた時は波斯菊(ハルシャギク)が咲いていたが 秋には彼岸花が咲く。
by souu-3
| 2014-07-24 06:19
| 奈良