玉響記=たまゆらのき=

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頭塔

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d0330311_1403894.jpg前回、記載した奈良の高畑町にある「頭塔」は 奈良時代、藤原広嗣のたたりで死んだ僧玄昉の頭を埋めたとの伝説があるらしいが 古文書には東大寺の僧・実忠が土塔を築いたと記録されているようだ。

← 春と秋の一般公開以外は現地管理人・仲村表具店へ前日までに申し込んで この入口の錠前を開けてもらって入る。

当初は東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと考えられているようで東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されているが、南面の石仏は土の上に直接置かれている。
五重塔などと同じように仏舎利を納める仏塔と考えられている。
そのうち、1基は郡山城の石垣に転用されたらしいが 郡山の住民は こういう多くの話を聞く度に肩身が狭い。(私の所為ではないが・・・)

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↑ 南面はこのようになっている。

頭塔に関することを検索していると「私はこの頭塔さんのある高畑町で生まれ、この頭塔さんを遊び場所にしていました。もちろんその頃は頭塔がそんな歴史的に由緒ある場所であることなど知るよしもなく 山遊びや、格好の「かくれんぼ」の場所であつただけのことなのですが 荒れ放題であったような気がします。お年寄りが道脇の崖に寄りかかるような石仏にお花や線香を供えているのが、妙に気になったのを覚えています。
久しぶりに奈良に帰った時、整備されすぎていて、私の目には、「よそ行き」の頭塔さんで、何かよそよそしささえ感じる姿でした。」=抜粋させて戴いた失礼お許し下さい=と書かれていた。

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左は整備前、右は発掘調査されている頭塔。
石積が崩れた部分があったり、石仏がなくなっていたりと、欠けた部分が多かった頭塔は復原された、瓦の部分は復原されたのではなく石仏を直射日光や風雨から保護するため設置されたようだ。
南半分は現状保存されているが 北半分は発掘調査し、非常に美しく整備されている。

横道に逸れるが 現在、郡山城も危険防止の為 石垣を積み直しているが ここのように綺麗になり過ぎるのではないかと 前の文章を読みながら 昔の面影がなくなるのも寂しい気持になる。

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石仏の写真と拓本は同じではないが 展示されていた拓本も写真に収めてきた。



珍しいピラミッドのような頭塔であるが これに似たものが大阪・堺に大野寺土塔(おおのでらどとう)がある。
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こちらは行基さんによって大野寺が創建され、その際に土塔も築かれたとされている。
周辺から瓦の寄進者と思われる名前が刻まれたものが出土しているようで 階段状になった13重の塔である。

【追加】
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今日は母の日
荷物が届くと犬たちは「何?!なに」と開けるまで興味津々。
あ、食べられないのか!些かガッカリして その場を離れる。アイはママの匂いもない お店から直接送られてきたのだろうから興味なしだった。





5月のカレンダー
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

d0330311_11451449.jpg息長足媛命、気長足姫尊とも書き 明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。
夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(熊襲の矢が当たったという) 懐妊中、筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
その時の子は のちの応神天皇。
大分県の宇佐神宮、大阪市の住吉大社、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている 奈良では桜井市の稚櫻(わかざくら)神社(旧末社高麗神社祭神) 、生駒市の往馬(いこま)大社(往馬坐伊古麻都比古神社)に祀られている。
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by souu-3 | 2015-05-10 06:37 | 奈良
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一瞬のきらめきを求めて


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