玉響記=たまゆらのき=

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奈良きたまち 1

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東大寺・修二会のクライマックスであるお松明が始まろうとしている。
そんな日、奈良きたまちを散策した。
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近鉄奈良駅から東向き商店街北通りを行くと奈良女子大がある。
この商店街は40年近く前、娘がYMCAの体操教室へ通っていた頃、子供たちが体操中、親は近くの喫茶店などでお喋りに夢中だった。皆、若かったなぁ。今、その子たちは当時の親の年齢を超えている。
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d0330311_19432417.jpg更に進み 佐保川を越えると聖武天皇の御陵が光明皇后の御陵と隣り合っている。
この佐保川にお椀の舟を浮かべて乗っていると我が家の近くまで帰る事が出来る。なんておとぎ話のようなことを思いながら歩く。

天平年間( 729~749年 )は災害や疫病( 天然痘 )が多発したため、聖武天皇と光明皇后は 仏教に深く帰依し 仏教の力で国を治める国分寺 国分尼寺を建立するとともに、天平16( 743 )年 には 東大寺盧舎那仏像 の建立の詔を出して、大事業に着手した。

正面に 第45代 聖武天皇佐保山南陵
その東側に 仁正皇后佐保山東陵がある。 光明皇后の御陵である。
光明皇后は藤原 安宿媛( あすかべ ひめ )、藤原 光明子( こうみょうし )、藤三娘( とうさんじょう )ともいう。 光明皇后 というのは 諡号や追号ではなく通称で、正式な尊号は「 天平応真仁正皇太后 」 (てんぴょう おうしんにん しょうこうたいごう )という。
佐保山一帯には元明・元正天皇陵など奈良時代の天皇や皇族の陵墓が数多くある。
d0330311_20261388.jpgここから東に進む。
最近、話題になっている「仁丹」の町名表示板が!
昨年末から京都で、「仁丹」の商標入り町名表示板10枚が盗まれたとみられる。というニュースが新聞などに載った。
「森下仁丹(大阪市)が約100年前、広告を兼ねて全国の町に設置したが、700枚超ものまとまった数が残っているのは京都市内だけで、レトロな雰囲気と希少さから転売目的もあるとみられる」            

何が新聞を賑わすか・・・
その町名表示板が目に留まった。

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坂を上って行くと多聞城跡へと。
ここは現在、若草中学校であるが、永禄2年(1559)、筒井順慶を破った松永久秀が翌年、眉間寺山(みけんじやま)に築城、多聞城と名づけた。城の完成には5年の歳月を要した。4階櫓をもつ壮麗なもので、4階櫓は近世城郭の天守の先駆けとなり、「多聞櫓」の言葉もこの多聞城に由来するといわれる。
 
久秀が、上洛した織田信長に帰順し城を明け渡すと、信長は明知光秀、柴田勝家を入れた。信貴山城(しぎさんじょう)で久秀が滅亡した後、信長の命を受けた順慶によって完全に破壊され、久秀が大和統一に築いた多聞城は、築城からわずか18年で歴史を閉じた。石垣は筒井城に運ばれ、さらに郡山城築城に使われた。

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ここから出土したお地蔵様などを こうして集められている。

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ここから奈良の街が一望出来る。若草山、東大寺、興福寺が望める。

=続く=
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by souu-3 | 2015-02-28 21:03 | 奈良
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