玉響記=たまゆらのき=

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村の風景

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近隣には古くからの村があることは前回書いたが 辺りには田園風景が広がる。
梅雨前に植えられた稲穂が大きくなり
d0330311_19153079.jpgもう、穂まで出ている。
水の管理をしたり 雑草を抜いたり 毎日の努力によって立派に成長している。
太陽の恵みも大きい。
子供の頃、母に「暑くないとお米は出来ない」と言われたのを思い出す。

冷夏でお米が出来なかった年があった。
何時だったかと調べてみると1993年だという。21年前。
もうそんなになるのだ。
平成の米騒動とまで言われる社会現象だった。
暑いのも大変だけど 冷夏でお米が出来ないのも困る。
あの時は 外米の混ざったご飯を食べた。
長いお米は不味かった。

農家の方に戴いたお米の美味しかったこと 決して忘れない。

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農家の小屋は こんな感じ。
我が家も玉ねぎはガレージに吊るしてあるが ホンの数個。

d0330311_2020256.jpgフェンスからはみ出して成長する西瓜。⇒
ちゃァんと台を作って貰っている。


村、邨、邑
d0330311_20255340.jpg←この字は「邑」であるが 現在使っている「村」も古くは邨と。人の集まり住むことで、「邑」の口(イ)は城郭の形で巴は跪(ひざまず)く人を横から見た形。城中に人の集まり住むところの意味である。邑は村より大きいものを指す。

都邑(とゆう)という言葉が思い出される。

「平城遷都之詔」に
方(まさ)に今、平城の地、
四禽図(しきんと)に叶い、三山鎮を作す。
亀筮(きぜい) 並びに従う。
宜しく都邑を建つべし。


元明天皇の詔(みことのり)が発せられ、平城遷都が決まった。
794年平安京に遷都するまでの間奈良が日本の首都であった。(784年長岡京に遷都するが、奈良時代は平安京に遷都する794年迄)
当時の都の人口は10万人(日本の人口600万人)と推定されている。
「邑」を検索して 興味のある事が書かれていたので 備忘録として以下に記しておこう。
「平安京に遷都する時、都の建物は瓦、柱、礎石などリサイクルのため全て京都に運ばれ、100年もしない内に都も宮跡も田畑に変わってしまう。東大寺や興福寺などの社寺は京都に移ることを拒まれたため奈良に残った。元興寺は室町時代の土一揆で殆どの建物を焼失し、再興されないまま民家が建ち商業の街となって行く。そして明治末期になる迄、1100年の間「奈良に都があった事すら」忘れ去られていた。」=ネットより
元興寺の全体像が見え難いのは こういう事情があったのだ。
「土一揆」とは室町時代中期から後期にかけて発生した民衆の政治的要求活動。
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by souu-3 | 2014-08-01 00:20 | 奈良
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