玉響記=たまゆらのき=

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喜光寺 2

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大阪に実家があった頃、勿論「昭和」という時代。30年代、40年代、この喜光寺の横にある阪奈道路を通ることが多かった。
当時は本堂があっただけだと記憶している。
昭和33年開通した阪奈道路は 昭和45年に拡張することになり 44年から喜光寺境内南部の発掘調査が行われ、溝・築地・建物などの基壇跡や多くの古瓦が出土したそうだ。

その後、平成になり実家もなくなり通ることも殆どなくなった。
平成2年、本山薬師寺の執事であった(現在は執事長)山田法胤師が住職に任命されて、本山と兼務されることになり、写経で天平伽藍の復興を進められたようだ。
このお寺には「いろは写経」があることを知ったのは何時頃だっただろうか?
書の練習をする人の中でも 写経をしたいという人は多い。般若心経を書き額に入れお仏壇の上に飾ったり お軸に仕立て 法事の時など床の間に飾る人もある。
歳と共に それも些か大変だという人に「いろは写経」は如何だろうかと思いながら果たせずにいた。

思い立って蓮の花を見に行く事にし この写経も求めてきた。
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久しぶりに訪れたお寺は 昔のイメージとは見違えるようになっていた。
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奈良の都・平城京右京三条三坊に位置し行基菩薩によって創建された。
d0330311_1917556.jpg寺名は本来「菅原寺」であるが 天平20年(748)聖武天皇が参詣された際、ご本尊より不思議な光明が放たれ、そのことを喜ばれた天皇より「喜光寺」という寺号を賜ったそうだ。
ご本尊は、平安時代に造像された1丈6尺の阿弥陀如来である。
このご本尊は現在、重要文化財である。
また、
本堂(金堂)は 室町時代初期に再建され こちらも現在、國の重要文化財である。

天平21年2月2日行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし 母の墓処のほとり 生駒市の竹林寺に埋葬されたといわれている。木造行基菩薩坐像(重要文化財)は、かつて竹林寺に安置されていたが、明治の廃仏毀釈によって廃絶となったために唐招提寺に移された。



d0330311_19432857.jpg平成22年「喜光寺に會津八一の歌碑を建てる会」の協力により 歌碑は建てられた。⇒
八一は大正10年と11年に喜光寺を訪れたそうだ。
 
ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかへりつつ
『鹿鳴集』 には、「菅原の喜光寺にて」 と詞書にあり 「作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき」 と書いているそうだ。
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もう一つの歌碑は、万葉集巻二十 4491 石川女郎の歌で
大き海の水底ふかく思ひつつ 裳引き平らしし菅原の里
藤原宿奈麻呂の妻、石川女郎が愛が薄れて離別されたことを悲しみ恨みながらも、幸せだった日々を追憶した歌で、寵の厚かった頃、大海の水底のように深くあなたのことを思いながら、華やかな裳裾を引いて、道が平らになる位、踏みならして、この菅原の里に通い続けましたのに、あの頃が懐かしいといった歌。
こちらは「奈良市に万葉歌碑を建てる会」の協力により建立されたものである。
 
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by souu-3 | 2014-07-15 00:22 | 奈良
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