下ツ道を行く 2
東西に横断する横大路と南北に縦断する下ツ道が交差する ここは古代からの交通の要衝だった。
江戸時代になると 横大路を含む河内から伊勢に通じる道は、初瀬街道または伊勢街道と呼ばれるようになり、
下ツ道は中街道と呼ばれ北は平城京の朱雀大路に達し、前回出発した地点をさらに南へ行くと吉野・紀伊方面に通じていた。日本最古の国道ともいわれている。
この2つの街道の交差点が「八木札の辻」で、ここは、近世・江戸時代になると伊勢参りや大峰山への参詣で大変賑わった。
ここに、古い旅籠が残りそのうちの一軒が「東の平田家」として橿原市指定文化財に指定されている建物で橿原市に寄贈され、改修工事を経て、平成24年7月に八木札の辻交流館として一般公開されている。
嘉永6年(1853年)に描かれたという絵図には賑わいが描かれている。
高札の脇にある六角形の井戸は半分になっているが この通り現在も残っている。
高札(こうさつ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法であるが 奈良市の三条通、南円堂の階段を下りた辺りにも 残されている。
これは 時代劇などでも見かけるが Wikipedia によれば「明治7年(1874年)に廃止され2年後には完全に撤去されたようで 明治維新とともに法令が一変して、手続が追いつかない」と書かれていたが 時代と共に世の中の移り変わりが こんな所にも感じられる。
この建物の中は
玄関を入り 今でいう帳場のようなところで手続き?をし 宿泊は2階へ上がる。
1階は この家の住まいだったらしい。
急な階段は当時の材木を残してあるので立ち入り禁止。
別に作られた階段から上って見学出来る。
2階には客間が6部屋、広間が2あり ここから屋根越しに耳成山が望める。
赤いポストのある部分が交差点である。
↓
部屋の欄間は 伊勢への道であったからだろう。二見ヶ浦や伊勢の海を表す波や松林などが描かれている。
一つ、非常に気になったのが
掛け軸である。
「松菊猶存」
谷 三山書(釈斎の落款がある)
江戸時代後期の儒者で 通称 新助、のちに昌平と改める。三山は号、別号は、淡庵、淡斎、釈斎。
八木村(現在の八木町)の米屋などを営んだ商家倉橋屋に生まれたが、幼い頃目と耳を患い、聴力を失ったが その見えない状態で書かれたものだという。
三山の卓越した学識を認めた頼山陽や吉田松陰など幕末の知識人とも親交があったようだ。
松尾芭蕉も この地で宿泊しているらしい。
「草臥(くたび)れて 宿かる比(ころ)や藤の花」
1688年 八木町に一泊しているが八木町の旅籠の発展からして この辺りであろうと思われている。
ここより下ツ道をさらに進む。この道標の側には 多神社の一の鳥居がある。
この神社がある笠縫を越え 田原本へ。
残念ながら家庭の事情で早めに帰宅しなければならない。
この日は 25,710歩 12.8Kであるが
この続きは後日、ここから歩くことにした。
【 続く 】
by souu-3
| 2014-01-20 07:57
| 奈良