玉響記=たまゆらのき=

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平和を祈念する日

8月15日は、公式名称では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」というそうだ。
人の思いは様々だろう。敗戦の日、終戦の日、等と言われるが、日本が戦争に負けた日だ。
あの日から68年 戦争を知る人は少なくなった。

この日を迎える数か月前3月13日、私が生れた家は戦争の為、焼けてしまった。
当時、その家には祖父母だけが住んでいて戦火の中、命からがら私たちが疎開していた所へ来た。来た筈なんだけどどのようにして来ることが出来たのか?何も聞いたことがなかった。

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今年の3月13日 ふと、聞いておけば良かった!と思った。祖父母どころか両親にさへ聞いておかなかったのは何故だったのだろう。子供には聞かせたくない辛い思いをしたからだろうか?d0330311_16475219.jpg
このところ、憲法のこともあり あの戦争の事を言い伝えるべきだと思っている人が多いような気もする。

そんな時、又々ネット検索すると「大阪大空襲」の体験が書かれた本があることを知った。
これは40年も前に発行されたもので当時、ここへ原稿を寄せられた人たちも現在は高齢になられているかいらっしゃらなくなった人も多いだろう。
終戦後 28年ほどであるから未だまだ生々しく 気の重い文章に中々読めなかった。それは戦争程恐ろしいものはないという内容だ。8月15日までには読み切ろうとは思っていたが 随分長くかかった。
私が覚えている戦争は霞が掛かった如くではあるが 空襲の夜、生駒の山の向うの空が真っ赤だったこと、焼け野原となった我が家の焼跡へ行ったことくらいだろうか。焼け跡には埋められていた陶器の器にガラスの融けたコップがくっ付いて使い物にならないものがあった。おぼろげな記憶だけである。

その後10年以上も経っていたが 大阪環状線(当時の省線、城東線)の車窓から見える砲兵工廠の焼け跡。
ここで繰り広げられた凄まじい出来事を実際に経験された人たちの話が載せられている。
大阪の戦災地域図 ↑ によると中心部は殆ど被災していたのだ。
それも昭和20年1月から終戦前日まで数回の空襲で大阪はこんなに罹災した。日本人の犠牲者は310万人(中学校社会科教科書に記されている第二次世界大戦等の戦争犠牲者数)と言われる。

数日前の新聞に奈良県では殆ど戦争の被害がなかったと思っている人が多いが十数回の空襲もあった、と出ていた。いつだったかJR法隆寺駅が新しくなる前 戦争の爪痕があったと聞いたように思う。

戦争を知らない多くの人に伝えられるほどの体験はないが その後60年程は平和に暮らしてきたように思う。
この平和が永久に続きますように!!




d0330311_1325873.jpgこんなことを書いていると ふと、小学校の時 多分お父さんのお仕事の都合か何かで転校していった友達からのハガキを思い出した。
当時は2円で今の葉書より小さいサイズだったが 小学生だから鉛筆で書かれている。
ここには「こちらに来る時 お金もわたしていた(支払っていた)ズック(靴)はどうなったのか」と書かれている。
もう1枚の葉書には「先生も送るのがたいぎ(大変)でしょうから もし先生がもっていなさったら あなたが私のかわりにはいてください」と。
お店で簡単に購入出来たものなら こんな文章にはならないだろうと思う。
当時(昭和24年7月)は配給だったのではないだろうか?
食料品を手に入れるのも大変だったのだろうけれど こうした子供の日用品も思うように簡単に入手出来なかったのだと思われる。

配給は戦中だけでなく 戦後もあったし「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年よりは前に配給制度も順次撤廃されたようだ。
が、余程 ボンヤリした子だったのだ。確かな事は覚えていない。

栄養失調など辛い思いをした子も居たであろう この頃も特に何事もなく過ごせたのは親が頑張ってくれたからだろう。
今更ながら 感謝である。
と、同時に2度と こんな事がない国であり続けるため 戦争を忘れてはならないと思う。
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by souu-3 | 2013-08-15 07:29 | 雑記
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